後藤新平の名古屋時代
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後藤新平(1857~1929)の名古屋時代(1876~1883)
明治8(1875)年
- 8月
- 安場保和(1835~1899)福島県令を免ぜられる。12月27日愛知県令となる。
明治9(1876)年
『自叙伝』で、父への手紙に、「あまり早く月給を取るようになるのは一身の毒でありますから、あえて進めていないので…」と書かれている。また「十九歳の春卒業、診療に従事するようになるが、小成に安んずべきでないとして、大都会への遊学の念が少時も
やまない」と述べている。
公立病院・医学講習所を堀川・天王崎、伊勢・三河湾を守る千賀水軍の将で船奉行、千賀屋敷跡(約5700坪)に着工。
明治10(1877)年 西南戦争勃発(2/15~9/24)
- 1月
- 20日 月給20円となる。
- 4月
- 陸軍大阪臨時病院が開設される。(石黒が院長、横井は副院長) ローレッツも見学。
司馬解職され私塾(大光院)を開くが、やがて結核にかかり、京都、熱海と転地療養(いずれも時期不明)、東京の自宅へ戻る途中、明治12年3月戸塚で亡くなる。
後藤は司馬が解職後再び阿川家に戻るが、やがて謫居(たっきょ)碑が残る大須に移る。 - 6月
- 15~23日医師開業試験を受ける。医師開業免状は9/15に手にする。
- 7月
- 1日公立病院・医学所開院式 10月に西別院から引っ越す。
移転後はじめの約7ヶ月間は、学校は休講措置をとっていた。翌年2月に学校の新規則が制定されたのをうけ、再び開校された。(名大史⑦より)
臨時病院を自費見学、資格がないと断られるが、試験の結果受け入れOKとなる。 - 8~9月
- 8/20に依願退職、9/3より雇医(日給60銭)として採用され、集中治療に加わる。
- 10~11月
- 8月コレラが上海から長崎に上陸、9月神戸にも広がったので、10/1に京都東福寺にコレラ避病院が設けられ、指名で治療に加わり、11/22病兵を護送して26日名古屋に戻る。
27日から名古屋鎮台病院雇医(月給15円)となる。
(石黒院長が後藤の働きを高く評価、相馬事件で失職の時、復帰に配慮、再飛躍につながる。)
明治11(1878)年
- 3月
- 公立病院への復帰交渉が進展せず、横井・ローレッツの直接交渉で1日に戻る。「日本のため、日本の医学界のために立派な医者を養成して、公益を将来に期すためには後藤君しかいない」と説得した由。三等診察医兼医学校一等訓導(月給25円)
- 4月
- 公立医学所を公立医学校と改称。
過労から胸を患い八事で転地療養、ローレッツが再三見舞いに訪れ、洋食を食べさせるなどで新平を感動させる。6月に復帰した。 - 7月
- 13日二等診療医兼一等訓導となる。(月給30円)
- 10~12月
- ローレッツの委嘱を受け、安場県令に「健康警察医官ヲ設ケルベキ議」を建白。衛生事務取り調べで東京出張を命じられ、12/10「愛知県ニ於イテ衛生警察ヲ設ケントスル概略」の建議を、長与専斎内務省衛生局長に呈して、長与に知られる様になる。
明治12(1879)年 コレラが流行する。
- 1月
- 両親と8歳下の弟彦七を東京に招き、その足で先に名古屋に船で到着、得月楼に滞在12月彦七を残し水沢に戻る。
- 2月
- 17日東京より帰院。
- 3月
- 陸軍一等軍医横井信之、愛知県病院長兼医学校長となる。
- 5月
- 大阪や京都の体験を経て、石川詢(1858~1938)、瀧浪図南(生没年不詳)と「有師会」を結成、医事衛生の研鑽に努める。
- 7月
- 9日病院一等診察医兼医学校監事となる。(月給40円)
- ?月
- 東別院の細川千巌大学林教頭をローレッツの代理で2度往診、1回目は新平が物質不滅の原則を述べ、2回目は教頭が『真俗二諦の説』や『物心一如』などを説いた。彼はこの時はじめて、東洋哲学の現存するのを知り、体と心は一体と悟り、自ら物質論に偏っていることの誤りを悟った。
- 9月~
- 新平はローレッツに法医学に対する質問をした。9月の冬学期から講義を行い、新平も聴講生となる。*瘋癲(ふうてん)患者を監禁する質問をしていた時、今村事務長(相馬藩出身)が「決判を頂きたい」と言って入ってきた。その質問を続けていたら、突然今村は倒れた。後に相馬事件に関わるのは、この出来事がきっかけ。ローレッツは、県病院に監禁なしの瘋癲病室を設けて、診療科目に加えた。*瘋癲病とは精神病のこと
- 11月~
- 有師会を拡大して衛生私会創設を議し、疫病の流行に備え、医師たちの連携を図るため、「愛衆社」創立に着手。医師をはじめ、種痘家、体操家、建築学者、農学者、商学者、行政官吏、県会議員などを対象とする。全国に先駆け、組織化に先鞭をつける。
- 12月~
- 弟の彦七は新平が養育に当たった。森村宜民に漢学を勉強させた後、名古屋の師範学校に入れた。詩や洋画も習わせ、福沢諭吉、福地桜痴など伝記や論文も読ませ、新聞に投書することすら奨励した。名古屋の沼浪龍蔵医師に入籍、東大医学部入学を目指して上京するが、高額の仕送りで遊惰に走り学業が修まらず、戸籍が戻された。再入籍を求められたが断り、新平は病院・医学校で手伝わせながら世話をする。
⇒やがて、阿川光裕の娘緑子さんと結婚、阿川家の家督を譲られる。
16日愛衆社設立の認可申請、24日許可される。
27日 横井院校長病気のため、その職務代理となる。(代理中15円増給)
明治13(1880)年
- 2月
- 22日「愛衆社」設立総会を東別院で開催、参加者は66名。後に栄誉会員として、ローレッツや長与専斎も名を連ねる。
- 3月
- 8日安場県令辞職し、元老院議官となり、家族も一緒に上京する。
- 5月
- ローレッツ、任期満了で金沢医学校教頭に就任、後藤も誘われるが残った。山形県公立病院済生館医学寮教頭を経て1882年に帰国、1884年37歳で亡くなる。
8日横井病院長兼医学校長が退職、22歳11か月で同病院長兼医学校長心得になる(月給60円)。 - 9月
- 医師のレベルアップを目的に、衛生・医事情報誌『四季医報』を創刊。
- 11月
- 2日から静岡、岐阜、三重の病院・学校を調査。
明治14(1881)年
- 1月
- 「連合公立医学校設立ノ議」を国貞愛知県令に呈す。長与局長が「このうえない盛策」と高く評価。
- 3月
- 三重県会議員に投ずるが、岐阜・三重両県では受け入れられず。
東海地区の医学を目指す若者の私塾、「対育舎」を得月楼に設け、50余名の子弟を育てる。 ⇒その後の予科創設につながる。
(愛知1中から5中に医学部創設の動きあり、質の低下を危惧➡明治20年に設置されるが、地方税の支弁禁止令により廃部となる。) - 5月
- 17日愛衆社社長に、体調が回復した横井信之を推し、自ら副社長になる。
- 夏
- 大野町を訪れる。
- 9月
- 公立病院を愛知病院と改称。
- 10月
- 公立医学校を愛知医学校と改称。
19日 病院長兼学校長になる(月給70円)。その後、外人医師から東大医学部出身の4名採用に切り替え、その後甲種医学校指定になり、名古屋帝大につながる基盤を作る。(熊谷幸之助、奈良坂源一郎、鈴木孝之助、小倉開治)
19日 海水浴についての意見や資料をまとめた『海水効用論 付海浜療法』を出版。
明治15(1882)年
- 2月
- 東京出張時、衛生局採用の内命をうける。後に「政治に這入る始まりです」と振り返る。
- 3月
- 後藤らの活動で司馬凌海の記念碑 大光院に建立される。題字『橘井四時香(きっせいしじにかんばし)』は松本良順陸軍軍医総監、碑文は横井信之陸軍一等軍医正が選んでいる。
- 4月
- 4日月給80円となる。
7日岐阜で板垣退助が暴漢に襲われる。県の反対を押し切って、深夜に早籠で岐阜に急行し、翌朝、負傷した板垣退助を手当てする。
「板垣死すとも自由は死せず」「ご負傷だそうで、ご本望でしょう」「医者にしておくのは惜しい人物だ」など多くのエピソードを残す。 - ?月
- 後藤と長与局長が大野町を訪れ、医療保健的適地であることを保証した。
内命以降 衛生局入りのため、対育舎費用などの借金の後始末に対処した。
明治16(1883)年
- 1月
- 6日内務省出向を申し付けられ、後任は熊谷幸之輔。盛大な送別会後21日海路で東京に向かい23日着、25日より御用掛・准奏任取扱で月給100円、衛生局照査係副長となる。
前年14歳で入学した井口琢次郎(三宅家から養子入り)と後藤は、西別院で送別記念の集合写真(約90名)を撮り、井口家に残されている。学則では満17歳からとなっており、後藤の判断で特例での入学が認められた様だ。井口琢次郎は明治19(1886)年に卒業後、岩村町(現・恵那市)で医院を開業、岩村町長も務めた。昭和元(1926)年後藤が 岩村町を訪問し「政治の倫理化」講演会を開催、こちらも集合写真が残されている。
これをきっかけに、井口家に加え、実兄三宅弁次郎の子や孫、実姉三宅かちが嫁いだ杉田家の子や孫の多くが医師になり活躍、三宅一族は後藤新平のお陰と高く評価している。 - 2月
- 6日 長与局長代理で、熱海で岩倉具視と結核療養者の件で面談。
18日 後藤と長与局長が動き、愛衆社は大日本私立衛生会に合併、愛知県支部となる。 - 4月~6月
- 新潟、長野、群馬を衛生調査で巡回する。
- 9月
- 調査報告書(巡回復命書)を提出。
人は天と地との間に立つやいなや、天と地を活用し、天と地に照らして生活態度を改める道が衛生の道と述べている。習慣衛生は古老の聞き取り調査から始め、記憶が頼り、粗食が長寿をもたらす、文明なるものが健康長寿の敵、鎮守の森への関心など幅広く記載。鶴見祐輔は、わが衛生史上画期的と記している。 - 9月
- 安場保和の次女、和子と結婚する。
- 時期不明
- 大須にあった公認の旭廓・女紅場で検黴技師となり、黴(性病)検査を担当していた。
「検黴の回数は最初月一回、後には月六回となって居る。医師は独逸人の早川ロレッ氏、熊谷幸之輔氏、面白いことは大正時代の政界の惑星後藤新平氏が検黴技師として愛知病院から通っていたことである。」
『日本の大須 昔と今』昭和13年発行、大須紅灯秘録より
女紅場の設置は明治9年、安場県令の時代、検黴医師団に公立病院が指定された。 - 時期不明
- 有賀松太郎の妹が旭廓時代、二人の間にしず子が生まれる。安場保和の次女和子と結婚した後、入籍し育てられる。後に医者の佐野彪太と結婚、その間に生まれた佐野碩は、戦後メキシコに渡り、後に「メキシコ演劇の父」と呼ばれた。
- 時期不明
- 国貞廉平県令(在任明治13/3~18/1)がムーテルに大野海水浴場の水質検査を委託
その結果、「海気清潔人身に適す…海水の科学的効果著しく…波動の刺激…能く人身に適し居れし」と指摘した。後に県令が大野滞在中に漢詩を残し、地元の有志で漢詩を刻した呼吸千里の碑が建立された。
- *司馬凌海(1839~1879)補足
- 佐渡生まれ、1850年江戸に出て漢学を学び、翌年松本良甫、松本良順のもとでオランダ語と医学を、更に私塾順天堂で蘭学と蘭方を学ぶ。1857年松本良順と長崎へ行きオランダ軍医ポンペに学ぶ。1868~1875年医学校(現・東京大学医学部)にて三等教授から文部大教授になり、1875年5~12月元老院少書記官を経て、名古屋に来ている。『七新薬』とか日本最初のドイツ語辞典『和訳独逸辞典』なども著している。
司馬遼太郎の『胡蝶の夢』で、主人公の一人として描かれている。
彼の長男司馬亨(こう)太郎(1862~1936)は17歳、松本良順が引き取り、東大医学部でドイツ語を研鑽、獨逸協会学校(現・獨協大学)教師、その後陸軍大学でドイツ語の教鞭をとり教授となるが53歳で退官。獨逸協会学校へ戻り、校長・理事のまま74歳で亡くなる。
参考資料
『正伝 後藤新平Ⅰ 医者時代』 鶴見祐輔著 一海知義・校訂 2004年11月 藤原書店発行
『正伝 後藤新平Ⅱ 衛生局長時代』鶴見祐輔著 一海知義・校訂 2004年12月 藤原書店発行
『後藤新平大全』別冊 御厨貴著 2007年6月 藤原書店発行
『別冊 環 28号』「後藤新平―衛生の道」 2023年3月 藤原書店発行
「後藤新平年譜」奥州市立後藤新平記念館HP
雑誌『名大トピックス』114号 ちょっと名大史⑦
『日本の大須 昔と今』昭和13年発行、平成24年復刻版
『三宅弁次郎の年譜』『杉田かちの年譜』『井口琢次郎の軌跡』
ウィキペディアなど
- 2023年12月24日
