後藤新平略歴

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岩手県奥州市生まれの後藤新平(1857~1929)は、須賀川医学校卒業後、19歳から25歳まで名古屋に住み、通訳兼医師司馬凌海の私塾でドイツ語を学び、オーストリアからの招聘医師ローレッツから当時最先端の西洋医学と衛生思想を学び、多感でエネルギッシュな青春時代を過ごしました。

特に東別院の細川千厳師の影響を受けて、個人を対象にした医学を超え、社会全体の「衛生」<生(いのち)を衛(まも)る>に目が向けられ、予防と緊急対応の体制を組織化した「愛衆社」を設立、「四季医報」を創刊、更に医学を志す若者に私塾「対育舎」を立ち上げるなどの活動で、24歳で愛知県病院、医学校の病院長と校長を務め、優秀な人材を集め、名古屋帝国大学(名古屋大学医学部の前身)につながる基盤も作ります。

内務省衛生局入り後の1888年に代表作「国家衛生原理」をまとめ、1895年日清戦争帰還兵約23万人のコレラ感染症の防疫を実施、水際防止にも成功します。

この後、台湾総督府民生長官、南満州鉄道総裁をはじめ、逓信大臣、内務大臣、外務大臣などの要職を務めます。逓信大臣時代に、木曾材の筏流しから森林鉄道への転換案を渋沢元治(後の名古屋帝国大学初代総長)がまとめ、近代産業の基盤を支える福沢桃介の電源開発を支援、この結果、中部電力と大同特殊鋼につながる会社も設立されます。

近代国家への貢献と共に、国家の医師として、戦後の三公社五現業(三公社:日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本専売公社、五現業:郵政、国有林野、印刷、造幣、アルコール専売)への道筋にも繋がりました。

一方、関東大震災直後に帝都復興計画をまとめ、各地の都市計画と区画整理の先鞭をつけ、戦前の中川運河や環状道路と賑わい創りの石川栄耀、戦後の「百メートル道路」に代表される田淵寿郎ら名古屋の都市計画者にも大きな影響を与えました。

日露協会学校(その後のハルピン学院)第1回卒業生杉原千畝も薫陶を受けています。